京都総合運転所40周年記念イベント |
最寄りの向日町駅からは結構距離があり延々と20分ほど歩く。道に迷ったら大変だが、幸いにもすでに同じ目的の人々がゾロゾロ歩いていたのでついていけばよい。開始30分ほど前に到着。部品即売などの先着順の企画はないので人の数もそんなに多くはない(目の前にはマンションが何棟も建っているようなところであり、そんなところで早くから並ばれては近所迷惑になりかねない)。
今回のイベントの目玉は国鉄色の特急型3本(キハ181系、485系ボンネット車、485系貫通型先頭車)を並べての撮影会や車両部品の抽選会などである。まずは鉄道グッズや記念Jスルーカードが売られているという工場内の販売ブースへ。鉄道グッズは最近鉄道イベントでよく見る日車夢工房やJR西日本商事製の鉄道グッズ販売、あとはイベント特製を含めた駅弁が多数売られていた。また、告知にはなかったが鉄道部品も売られていた。といっても方向幕とかサボといった売れ筋ではなく、つり革やボタンやランプに椅子といったまさに電車の解体部品、また工場の隅っこに埋もれていたと思われるわけのわからないものまでまさにリサイクルショップのような品揃えであった。記念Jスルーカードはファン受けしそうな国鉄型特急車揃い踏みといった形のデザイン。また、オレンジカードやイコカもあったが、そっちはふつうに駅に売っているものであった。さて、記念Jスルーカードは長蛇の列で売れること売れること。というのも3種のカード購入3000円につき1枚抽選券をくれる。この抽選券が前述の車両部品の抽選会に使われるため、それ目当ての客が恐ろしい枚数のカードを買いまくっていた(具体的な枚数は控える)。正直、抽選会に当たるとはとても思えないが、とりあえず私も3枚ばかし買っておいた。ま、私は大阪往復したら記念カード(3000円)の残額がもう足りなくなるので、どうせ使うしムダ使いにはならないのだが。今日はほぼ一日ここに居ることは間違いないが、よくある模擬店のたぐいがないため食料の確保が困難、それを見越してミニ駅弁大会の様相で5~6種類ほどの駅弁が売られていた。そしてフッと買ってしまったのが富山駅弁「ますのすし」(1050円)。・・・なぜこんなところで張り込む?(笑)
車両展示に目をやると、まず1等展望車マイテ49、車両限界検測車、通称「オイラン車」ことオヤ31が並べてある。そしてその隣には14系寝台車とキハ65系「エーデル」が並べてあるが、こちらは共に10月のダイヤ改正で歴史に幕を閉じた急行「だいせん」のマークが掲示されていた。「エーデル」は単に文字だが、14系は客車時代の絵マークが掲げられている。何の変哲もない寝台車でもやはりマークがあるだけで表情が全然違う。それは別のところに展示してある485系やキハ181系も同じだ。おのおのさまざまなヘッドマークを掲げて各地を結んできただけにマークが違うだけでも違った雰囲気をかもし出す。…どっちにしろ客が「マークを変えてくれ!」と言い出すのは見えているからかあらかじめ1時間ごとに各車に出すマークが事前告知されていた。正直な話、今回のイベントは長時間居るには少々内容に乏しかったのだが、このマーク替えがあるために多くの人が最後まで残っていた(もちろん、午後に鉄道部品オークション&抽選会があるから、というのもあるが)。特急3並びは主に「白鳥」や「雷鳥」が文字マークだったり絵マークになったりだったが、「加越」も掲示。客車は「あかつき」「彗星」など今でも見られるマークだったが、「だいせん」より一足先に姿を消した「ちくま」のマークが掲示された(写真下)。
さて後半、撮影会は続くが2時前から鉄道部品オークションがはじまった。サボ、方向幕、極めつけはボンネット用ヘッドマークと即売には怖くて出せないものが出品され、多くの観衆によってさばかれていく。私はスタート直前に偶然であった大学サークルの先輩とともに(注・ブログ中この表現がよく出てくるが、一律同じ方ではない。念のため)見守った。極め付きは最後の品物となった「白鳥」だったか「雷鳥」だったかのボンネット用ヘッドマーク。2人による一騎打ちとなり、価格が6桁になってもどんどんどんどん値段があがる。片方はかなり苦しそうに値段を上げ、ついにイベントにかけて「40周年だから40万!!」とコール、これにはオークションの主催者もまいった、と思ったのだろう。うまく落ちたしこれで落札、といこうと思ったら相手があっさり41万をコール、軽くひと悶着したが結局続行となりもう少し値段が上がってコールした人は負けた。こういう一種の興奮空間にあってはなかなかオークションに参加するのは怖いものである。
引き続いてこんどは「Jスルーカード」購入者対象の抽選会であったが、やはりというか大量購入者が多数いたため、一定のグループに固まってまとめ当たりする事態となり、少々盛り上がりに欠けた結果となった。ある程度予想されていたとはいえ…。まだ撮影会は少し続いていたが、先輩氏とともに向日町駅までもどり、帰路についたのだった。